とうとう母は入院した
先週21日の朝
いきなり動け無くなって、救急車で日赤病院へ
脱水症状を起こしているとのことで、点滴を続け
翌22日の朝、改善したとの診断で連れて帰させられるも、まったく動けない
23日、デイサービスで日中は預かってもらい、
24日に、かかりつけの精神病院の心和園へ
医師が状態を診て、これは
心和園では対応できない病状で
28日に日赤病院を予約しているなら必ず検査をしてもらうように言われ
それまで心和園にて点滴など、できる限りの対応をしてもらう
でも、やはり
意識障害、血尿、発熱など体調改善にならず
28日、日赤病院にて検査の結果
脳梗塞を起こしているとの診断で入院となる
かなり重篤な状態と思うが、今は経過を診ていくしかないと言う状況で、手術等ではなく、薬で改善をはかって行くとのこと。
部屋にはいくことも出来ず
ナースセンターに入院に関わる身の回りのものを預けるまで。
急変しないことを祈るところ。
昨年秋、両親と一緒に撮った写真
2021.11.14 長府
右膝の病名が判明
大宮駅近くの大宮ひざ関節症クリニックで診察してもらって
病名は「右変形性膝関節症」
MRI検査の写真は下の通り
向かって右側(右膝内側)の赤丸が痛いところ
左右の赤丸の違いが分かる。
ひび割れしている半月板
軟骨の線も細い
これが原因で負荷をかけると痛みや炎症を起こしているとの診断。
100%老化によるもので、
おそらく左膝のMRIを撮っても
同じような写真になるでしょうとのこと
また、マラソン、登山などは後押ししたに過ぎず、原因は老いとのこと。
還暦を迎えたこの年らしい
壊れた身体の一部と言うところかな
まぁ、ハッキリして良かったけど
どんな治療をしても完治をしないと聞き
ちょっとショックだった。
進行を緩める治療の②を提案されるも
一回の注射
165,000円と言われ、退散。
✳︎本日の出費
電車代 330円×2
診察 3,300円 (自由診療)
でした。
家に帰って、いろいろ情報をみると
「診療実績日本一! 最先端の関節治療を提供する順天堂のPRP外来」と言う記事では
一回4万円と書いてあったのをみつけて、
その場で結論を出さなくてよかった〜。
これから長い付き合いになるので、膝に負担がかからないように、どう過ごして行くか、前向きに考えていくしかないか…
ʅ(◞‿◟)ʃ
と言うのが、私の本日の結論。
山城巡り 2022.2.23
新曲輪部分が岩槻公園となっている、本丸あたりは公民館、室内プール、住宅地となっている。
古河城にいた古河公方・足利成氏に対抗するため、1457年(長禄元年)、扇谷上杉持朝とその家臣太田道真・太田道灌父子により、江戸城・河越城とともに築かれたとされていた。近年、1478年(文明10年)に古河公方方の忍城主成田顕泰の父成田自耕斎正等が築城したと記述された史料の発見により、成田氏築城説もあるという。
伊豆、相模を手中に収めていた北条氏が武蔵に侵攻して岩槻城攻略に乗り出すと、1546年(天文15年)の河越夜戦で北条氏の武蔵支配が決定的になる中、岩付城はそれに抵抗する太田資正(三楽斎)の居城として機能した。1564年(永禄7年)、資正の留守中に嫡子・太田氏資が北条氏康に内応し資正の追放を断行、岩付城は後北条氏方となった。1567年(永禄10年)、氏資が上総国で戦死すると、氏資には男子がいなかったため、北条氏はこれを契機に岩付城を直轄にする。1580年(天正8年)には北条氏直の弟の源五郎が、その早世後の1585年(天正13年)にはその弟氏房が城主になった(形の上では太田氏の名跡を継いでいる)。
北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入ると、徳川家の譜代家臣の高力清長が2万石で岩槻城に入った。以後、青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・藤井松平氏・小笠原氏・永井氏ら譜代大名の居城となった。江戸中期に徳川家重の側用人大岡忠光(大岡忠相の遠縁)が入って藩主家が固定、廃藩置県まで大岡氏の居城となった
↓久伊豆神社に飾られていた復元図
↓「時の鐘」のそばにある案内板
↓岩槻公園(新曲輪)にある堀障子跡、曲輪の外周を囲む土塁などをみることができる。
↓時の鐘にあつ案内板
↓時の鐘 1671年 城主阿部正春の命令で鋳造 渋江口に設置された。
1720年に時の城主永井直信が改鋳し現在に至る
↓久伊豆神社に飾られたいた町雛
山城巡り 2022.2.22
34.埼玉県川越市砂久保 砂久保本陣
砂久保陣場は、戦国時代に扇谷上杉氏、山内上杉氏、古河公方足利氏の連合軍と小田原北条氏が河越城をめぐり戦った時に陣が張られた場所。
遺構は特になく神社に標識があるのみ
(歴史概要)
1537年(天文6)河越城を本拠とする扇谷上杉家は、朝定(ともさだ)が北条氏に戦いを挑み、武蔵府中・深大寺城を城築し対抗するも、
1541年(天文10)朝定は、河越城奪回を企てるも失敗
1545年(天文14)
9月26日 山内上杉憲政と手を結び、河越城に侵攻、包囲。北条方の北条綱成(つなしげ/北条氏康の義弟)が籠城。
10月27日 両上杉方は戦いの正当化のため古河公方足利晴氏(妻は北条氏康の妹)を懇願により上杉軍に迎える
1546年(天文15)扇谷上杉氏の宿老の岩槻城の太田全鑑(ぜんかん)を離反させ味方に引き入れ、4月17日に出陣。砂窪(砂久保)に着陣し、足利晴氏に助命を懇願するが取次も拒否される。
4月20日 上杉憲政が氏康陣所の砂窪に攻めかかる。氏康は劣勢も跳ね除け、遊撃。城内からは綱成らも撃って出て、氏康の奇襲などにより北条氏が勝利する。(河越夜戦)
結果、上杉憲政は平井城に、足利晴氏は古河に敗走し、扇谷上杉氏は朝定とその重臣難波田善銀が戦死し滅びた。