山城巡り 2022.2.23

35.埼玉県さいたま市岩槻区 岩槻城

新曲輪部分が岩槻公園となっている、本丸あたりは公民館、室内プール、住宅地となっている。

古河城にいた古河公方足利成氏に対抗するため、1457年(長禄元年)、扇谷上杉持朝とその家臣太田道真・太田道灌父子により、江戸城河越城とともに築かれたとされていた。近年、1478年(文明10年)に古河公方方の忍城主成田顕泰の父成田自耕斎正等が築城したと記述された史料の発見により、成田氏築城説もあるという。

伊豆、相模を手中に収めていた北条氏が武蔵に侵攻して岩槻城攻略に乗り出すと、1546年(天文15年)の河越夜戦で北条氏の武蔵支配が決定的になる中、岩付城はそれに抵抗する太田資正(三楽斎)の居城として機能した。1564年(永禄7年)、資正の留守中に嫡子・太田氏資が北条氏康に内応し資正の追放を断行、岩付城は後北条氏方となった。1567年(永禄10年)、氏資が上総国で戦死すると、氏資には男子がいなかったため、北条氏はこれを契機に岩付城を直轄にする。1580年(天正8年)には北条氏直の弟の源五郎が、その早世後の1585年(天正13年)にはその弟氏房が城主になった(形の上では太田氏の名跡を継いでいる)。

北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入ると、徳川家の譜代家臣の高力清長が2万石で岩槻城に入った。以後、青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・藤井松平氏・小笠原氏・永井氏ら譜代大名の居城となった。江戸中期に徳川家重側用人大岡忠光大岡忠相の遠縁)が入って藩主家が固定、廃藩置県まで大岡氏の居城となった

久伊豆神社に飾られていた復元図

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↓「時の鐘」のそばにある案内板
↓岩槻公園(新曲輪)にある堀障子跡、曲輪の外周を囲む土塁などをみることができる。
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↓時の鐘にあつ案内板

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↓時の鐘 1671年 城主阿部正春の命令で鋳造 渋江口に設置された。

1720年に時の城主永井直信が改鋳し現在に至る
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久伊豆神社

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久伊豆神社に飾られたいた町雛
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