半生を振り返る Part1

還暦を超え、1月17日に新たな一歳の年を迎えた。私の半生を振り返ると

山口県山陽小野田市赤崎二丁目にある森田病院で生まれて、物心をついた頃は北九州市門司区田の浦の父の会社のアパートに住んでいた、

門司の双葉幼稚園に通っていた頃からの記憶はまだ残っている。節分の豆まきで、袴を着せられ台の上に乗って、得意げに、みんなを下に撒かせてもらっていた。また、大好きな女の子と手を繋いで踊りたくて、その子の側を離れずに行動をしていたり、オマセなところが、こんな頃からあったのか、おかっぱのその子の顔も何となく記憶にある。

清美小学校に通っていたころは、学校が見下ろせるところの平屋にも住んでいたが、父の社宅アパートがほとんど。

アパートの仲良し家族でよく車で旅行にいっていたものでした。

当時は、三菱キャロルで小さな軽自動車。当然、エアコンもなく、夏の旅行なんかは大変だっただったと思うが、旅館が取れず路上で寝たり、結構、行き当たりばったりのそんな車の旅が楽しかった思い出しかない。

 

小学校4年に進級するときに、父の転勤により小野田に転居。小野田市神町の父の会社の借り上げ社宅に住む、隣は同級正のKIくん、特に仲が良かったわけでもないが、悪くもなかった。それよりか近くに住む愛犬病院のMKくんのほうが仲が良く、同じ塾に通ったり、学校にも一緒にいってたりしてた。

小学校6年生の時に、サッカースポーツ少年団に入る。それまで肥満体に近い自分だったが、水泳もバリバリして、痩せて身長も一気に伸びた。

それから、竜王中学校、小野田高校、北九州市立大学までサッカーを続けることになる。

竜王中学校の時にフォークギターも独学で始めて、部室でみんなと弾きあったり、教えあったりしてた。井上陽水、吉田卓郎、泉谷しげるの曲を得意げに弾いて歌っていたものだった。

中学校の進学する前に、今の実家に、父が旧家を建て替えて引っ越し、祖父母との同居が始まった。

祖父母は、海苔の養殖をしていて、学校が冬休みの時などはよくアルバイトをさせてもらい小遣い稼ぎをさせてもらっていた。祖父からは「早起きして沖に一緒にでれば月10万円は払うよ」と言われたが、母が反対して乾燥工場で働いていた。そのころは、取れたての生海苔をポン酢をかけて食べたり、出来立ての海苔をストープであぶって食べたり、今となっては贅沢なものを普通に食べていた。

祖母も、自分でフグをさばいて、夕食にフグの団子汁も食べさせてくれていた。「毒は大丈夫?」と聞くと「肝を食べなければ、死にゃぁせん」といってさばいていた。これも今となっては信じられないことでですがね。

当時、この地域では海苔の養殖が盛んだった。でも、温暖化の影響なのか、だんだんと不作になり、中国電力の埋め立ての影響などもあり廃業をしていった。