山城巡り 2022.2.18
山城巡り 2022.2.15
[2月15日]
31.比企能員館
遺構はなく、
↓扇谷山宗悟寺(せんこくさんそうごじ)周辺が跡地と言われている。
若狭の局が、持ち帰った頼家の位牌が現在も残されているとのこと。
源頼朝の乳母・比企尼(ひきのあま)の甥(後に養子)であった比企能員は、頼朝を流浪時代から支えた功臣で、自身の娘である若狭局が鎌倉幕府2代将軍・源頼家の側室となったことから、幕府内で強大な権勢を振るった。
比企氏が将軍頼家の外戚として力を付ける事を恐れた北条時政は策略を巡らします。ついに建仁3年(1203年)頼家が病にかかると、同年9月2日、比企氏を倒すため北条邸で薬師如来の法要があると偽り、比企能員を自分の屋敷に招き殺してしまいました。
北条氏の軍は比企が谷の比企邸も襲い、比企一族は滅亡した。
参考
東松山市大岡市民活動センターに「比企氏紹介コーナー」が設置されてた(入場料無料)
山城巡り 2022.2.13まで
[2月2日]
高見城は青山城主・青木氏久の家臣、石井政綱によって築かれた城だと伝わっています。その後は山内上杉氏方の鉢形城の支城として機能していたとみられ、扇谷上杉氏と山内上杉氏が戦った二度にわたる「高見ヶ原合戦」では、山内上杉方の背後を守る役割を果たしたと考えられています。現在、山頂の本丸跡には四津山神社が建てられています。
↓二の廓
↓三の廓
20.埼玉県深谷市本田 本田館
私有地かなぁ?入ること遠慮
21.埼玉県比企郡小川町高谷 高谷砦(こうやとりで)
案内図はないけど、国道から丘陵を登り
竹藪を登った先は、山城感たっぷり
22.埼玉県比企郡小川町 中城
東秩父七峰縦走のスタート地となる小川町駅ー八幡神社ルートの間にあり、
丘の上に落ち着いた構えをしていると感じた
中城は中世の土豪である猿尾氏の居城とされている。
戦国時代には腰越城の支城として利用され、江戸時代に入ると旗本・金子伊予守の陣屋が置かれました
個人所有につき狩猟期間11月15日から3月15日まで、立ち入り禁止の掲示あり
駐車場もどうするか、事前に考える必要あり
登ること諦めた
[2月3日]
本廓は、土塁に囲まれ広く落ち着いた雰囲気
すぐ横は鴻巣高校
承平天慶の乱(じょうへいてんぎょうのらん)は、平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱(たいらのまさかどのらん)と瀬戸内海での藤原純友の乱(ふじわらのすみとものらん)の総称である。一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。
ただの反乱ではなく日本の律令国家衰退と武士のおこりを象徴したものであった。「東の将門、西の純友」という言葉も生まれた。 鎮圧には平将門の乱の方に平貞盛が率いる平氏の、藤原純友の乱の方に源経基が率いる源氏の力を借りたので日本の世に源平二氏が進出するきっかけにもなった。
児童公園にも案内板があって、最初に着いて焦ったが、住宅街の中、すぐ側にわずかな土塁形状を残していた跡地あり
🌟散策路も整備されて、敷地内には昔ながらの民家や畑もあり、広く、のどかな城跡
↓障子堀あり(ほとんど埋められいたが、一部は.まだ発掘調査中)
↓堀、土塁
↓頭殿権現社(ずどのごんげんしゃ)
陣屋の守護神
↓ニの廓 昭和9年付けの保存会の板碑あり
[2月5日]
綺麗に整備され過ぎて、ただの公園の感じ
でも、資料館は無料で資料もわかりやすく、古民家も楽しく見れて、良かった。
武蔵七党村山党の一流難波田氏の居城である。鎌倉時代に村山党金子氏の金子家範の子、高範が当地を与えられ地名を苗字として館を構えたのが始まりと言われている。
河越夜戦で難波田氏の主家扇谷上杉氏の敗戦により難波田氏が没落すると北条氏の家臣となる上田朝直一族の上田周防守左近の知行地となり、支城として縄張りを広げ城郭を改築していったとされる。
[2月6日]
扇谷上杉が、北条から河越城を奪還のため陣取った城
本廓の台から入間川沿いに河越城方面を望むと、その頃を忍ぶ思いが湧く
でも、北条の援軍に夜襲で敗退するんだよね〜
押したり引いたり、戦国の世もたいへんだったんだと…思う
[2月13日]
毛呂山町 歴史民俗資料館(無料)に、まずは寄って事前に勉強。毛呂山町の越辺川(おっぺがわ)流域には古墳群あり、出土品がたくさん展示されてました。
藤原氏の血筋を引く毛呂氏は、鎌倉幕府の樹立期には源頼朝の側近として活躍した御家人でした。やがて、南北朝以降の東国内乱の時代を迎えると武者として幾多の合戦にもその名を残します。
関東管領山ノ内上杉氏と扇谷上杉が争った長享の乱の最中1504年(永正4年)両者は立河原にて激しく衝突、毛呂氏は管領山ノ内上杉氏の被官と成っていて山ノ内方として参戦していました。
1524年(大永4年)北条氏綱は扇谷上杉朝興の江戸城を占領しました、この期に毛呂太郎は山ノ内上杉氏を離れ北条方へ属します
それに対して山ノ内上杉憲房は主要幹線道の鎌倉街道を確保する為に毛呂郷に侵攻しました、毛呂氏は竜谷山城(毛呂要害)に篭城して防戦したが、北条氏綱が援軍に駆けつけ両者は和議し開城。その後も毛呂氏は北条氏に属して各地を転戦した。
天正十八年(1590年)豊富秀吉の小田原征伐の際、秋重以下一門は小田原の支城八王子城の守備に任じられた。四月から攻防が始まり、六月には前田・上杉連合軍の強襲を受け、ついに落城し毛呂氏一門の多くが討死した。そして、後北条氏の滅亡とともに毛呂氏の在地領主としての役割も終焉しました。
出雲伊波比(いずもいわい)神社では、秋11月3日
春3月第二日曜日)に流鏑馬が奉納される
↓●猪俣党 ●児玉党 ●私市党 ●丹党 ●横山党 ●村山党 ●西党 ●野与党
●秩父一族 ●その他有力武士
29.毛呂城
長栄寺裏山が城郭跡となっている
30.竜谷山城
ゴルフ場の脇道をのぼり、山頂となる本廓にほ雷電神社が祀られている、毛呂台地が一望
一旦、ここで公開しまーす
山城巡り 2022.1.末まで
新たな趣味として、山城巡りを始めた。
日本には、城が3万から4万もあるといわれている。でも、その90%以上は自然の山の地形を活かした所謂「山城」
大掛かりな石垣もなく、土を盛り上げた土塁、空堀だけであったが、地形を巧みに利用したさまざまなな山城が存在してる
まずは、秩父、武蔵といわれる地域の山城を巡りはじめた。
🌟は、わたしのお薦め、お気に入り
【参考】
【概略】
1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に河越城(川越城)の築城を命じ、自ら城主となった。
1497年(明応6年)には、扇谷上杉氏の当主・上杉朝良が居城する河越城に対抗して、山内上杉氏当主・上杉顕定が入間川対岸の旧河越館に「上戸陣」を構築し、古河公方の足利政氏を招いて、7年間も睨みあった。
1524年(大永4年)北条早雲の嫡男北条氏綱が扇谷上杉朝興の江戸城を収め落とし、翌年には扇谷方の岩槻城を占領して、武蔵の内陸に食い込んだ。
1537年(天文6年)に上杉朝興が死んで上杉朝定が若くして家督を継ぐと、若年の上杉朝定が家督相続したのを好機と見た北条氏綱はそれに乗じて一気に攻勢をかけ、河越城を奪取。武蔵国支配を確定した。上杉朝定は北方の武蔵松山城へ逃れた。
1545年(天文14年)その後、氏綱の死後、上杉朝定は、敵対してきた古河公方(足利晴氏)・山内上杉氏(上杉憲政)と連合を組み10月から8万の大軍で河越城を包囲し、さらに今川義元、武田信玄と連携し、駿河と武蔵でほぼ同時に後北条氏に対する軍事行動に出ることで圧迫を強めた
1546年(天文15年)4月、今川氏との戦いを終えて救援にかけつけていた北条氏康は夜襲で連合軍を撃退した。これが日本三大夜戦の一つ「河越夜戦」である。戦勝した後北条家は武蔵国の支配を完成させた。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、河越城を守っていた後北条氏の宿老大道寺政繁が、上野国まで出陣して迎え撃つが降伏。前田利家の軍勢が河越城に入城した。
徳川家康が関東に封ぜられたのに伴い、徳川氏譜代筆頭の酒井重忠が1万石をもって川越に封ぜられ、川越藩が立藩した。
川越藩立藩以後の川越城主は、酒井家→酒井家→堀田家→大河内松平家→柳沢家→秋元家→越前松平家→松井松平家と推移した
↓現存する建物は嘉永元年(1848年)に建てられたもので、本丸御殿の一部
↓川越城すぐそばにある川越博物館(入館料200円)の館内の展示物はほとんど撮影OK
資料も充実していて、定期的にガイドによる川越の町の説明があります。
↓ 川越城の敷地上側に「大手門」(今の川越市役所あたり)、その先が「札ノ辻」(T字路が多い中の唯一の十字路)、光を当てているところは「時の鐘」周辺
↓富士見櫓の頂上付近にある「御嶽神社」
[1月13日 ]
🌟とても良く整備されていて、山城の特徴がわかりやすく、興味を深めてくれた
↓二の廓から本廓を見上げる
薄暗い雑木林を登り山頂に城を構えている
枡形小口あり、未だ一部発掘調査中だった
麓の日枝神社の枝垂れ桜が咲く頃にもう一度来てみたい
↓山頂の本廓
[1月19日]
吉見百穴近くにあり
市野川を眼下に、そびえ立つ城
その当時の激しい争奪戦を忍ばせる
↓本廓
[1月27日]
5.埼玉県川越市下広谷 大堀山館
大きさは感じられたが、
竹藪で鬱蒼、観光地川越でもあるし、もう少し整備してくれてたら嬉しい
6.埼玉県川越市上戸 河越館
だったぴろい、平城感たっぷり
【参考】川越博物館 資料引用
武蔵国を拠点とした武蔵武士は、平氏の流れをくむ秩父氏を中心とする豪族的武士と在地出身で武蔵七党と呼ばれた中小武士などに区分されます。河越氏は、上戸地区を拠点とした秩父氏の一族で、豪族的武士にあたります。
桓武平氏秩父氏の流れをくむ河越氏は、武蔵国の武士を統括する留守所総検校識を相伝する名門で、河越荘が成立した12世紀後半から200年余り武蔵国を代表する武士だった。なかでも重頼は源義経に厚く信任され、娘も義経に嫁ぎますが、後に義経縁者の立場が災いして処刑され、勢力が衰えます。その後、経重が活躍した13世紀後半ごろには再び隆盛しますが、応安元年(1368)、鎌倉府に背いた平一揆の乱で敗れ、姿を消しました。
河越荘を治めた河越氏の居館「河越館」は、東に入間川、西に鎌倉街道を望む上戸の台地上、水陸の交通をおさえた要衝に位置しています。史跡整備に伴う発掘調査により、川と街道を結ぶ東西び道に沿って、堀や塀で囲まれた屋敷や寺院が立ち並ぶという13世紀~14世紀中ごろの景観が明らかになってきました。また、河越氏滅亡後も戦後期に至るまで、跡地が繰り返し利用されてきた様子もわかっています。
[1月28日]
跡地はお寺
8.埼玉県東松山市 青鳥城(おおとり城)
広い本廓のみ?
駐車場が分からずコンビニに停めた
跡地はお宮
資料館100円なれど、とても充実
鎌倉時代に描かれた絵巻物「男衾三郎絵詞」に描かれる吉見二郎と男衾三郎の兄弟の話に興味湧く
11.埼玉県比企郡小川町 腰越城
結構入り組んだ縄張り、でも本廓からは眺めは程よく良い
総合福祉センター・パトリアおがわに車を停めて登った
↓槻川
↓囮小口
12.埼玉県東松山市高坂 高坂氏館
跡地はお寺
[1月29日]
資料館臨時休館、本廓は発掘調査中
スケール、広さに感服
↓角馬出からの眺め
竪堀の長さに驚き
藤田善導寺に駐車して登口へ
↓ながぁ〜い竪堀
本廓に廃墟の観光城
白鳥神社の横が登口
痩せ尾根沿いの物見廓あり
看板の先を100mくらい歩くとハイキング看板に登口案内あり
登口の家のおばちゃんに地図をいただく
その家の犬が吠えるのを合図にしてるとのこと
[1月30日]
17.埼玉県桶川市川田谷 三ツ木城
城山公園内
山城跡地は、何故こんなに竹藪が多いのかなぁ
18.埼玉県北本市石戸宿 石戸城
ほとんど耕作地になってて、少し面影あり
2022.1月度は18城を周った
山城は戦国時代にそれぞれの目的のもとに作られていたことがわかった。城の縄張りの中を歩くと、その当時の城の有り様が思い浮かんできて、どのように活用されて、そして戦っていたんだろう?など、情景を想像するととても楽しくなってくるる。
来月からも、どんどん山城巡りを続けていくことにきめた。
半生を振り返る Part1
還暦を超え、1月17日に新たな一歳の年を迎えた。私の半生を振り返ると
山口県山陽小野田市赤崎二丁目にある森田病院で生まれて、物心をついた頃は北九州市門司区田の浦の父の会社のアパートに住んでいた、
門司の双葉幼稚園に通っていた頃からの記憶はまだ残っている。節分の豆まきで、袴を着せられ台の上に乗って、得意げに、みんなを下に撒かせてもらっていた。また、大好きな女の子と手を繋いで踊りたくて、その子の側を離れずに行動をしていたり、オマセなところが、こんな頃からあったのか、おかっぱのその子の顔も何となく記憶にある。
清美小学校に通っていたころは、学校が見下ろせるところの平屋にも住んでいたが、父の社宅アパートがほとんど。
アパートの仲良し家族でよく車で旅行にいっていたものでした。
当時は、三菱キャロルで小さな軽自動車。当然、エアコンもなく、夏の旅行なんかは大変だっただったと思うが、旅館が取れず路上で寝たり、結構、行き当たりばったりのそんな車の旅が楽しかった思い出しかない。
小学校4年に進級するときに、父の転勤により小野田に転居。小野田市水神町の父の会社の借り上げ社宅に住む、隣は同級正のKIくん、特に仲が良かったわけでもないが、悪くもなかった。それよりか近くに住む愛犬病院のMKくんのほうが仲が良く、同じ塾に通ったり、学校にも一緒にいってたりしてた。
小学校6年生の時に、サッカースポーツ少年団に入る。それまで肥満体に近い自分だったが、水泳もバリバリして、痩せて身長も一気に伸びた。
それから、竜王中学校、小野田高校、北九州市立大学までサッカーを続けることになる。
竜王中学校の時にフォークギターも独学で始めて、部室でみんなと弾きあったり、教えあったりしてた。井上陽水、吉田卓郎、泉谷しげるの曲を得意げに弾いて歌っていたものだった。
中学校の進学する前に、今の実家に、父が旧家を建て替えて引っ越し、祖父母との同居が始まった。
祖父母は、海苔の養殖をしていて、学校が冬休みの時などはよくアルバイトをさせてもらい小遣い稼ぎをさせてもらっていた。祖父からは「早起きして沖に一緒にでれば月10万円は払うよ」と言われたが、母が反対して乾燥工場で働いていた。そのころは、取れたての生海苔をポン酢をかけて食べたり、出来立ての海苔をストープであぶって食べたり、今となっては贅沢なものを普通に食べていた。
祖母も、自分でフグをさばいて、夕食にフグの団子汁も食べさせてくれていた。「毒は大丈夫?」と聞くと「肝を食べなければ、死にゃぁせん」といってさばいていた。これも今となっては信じられないことでですがね。
当時、この地域では海苔の養殖が盛んだった。でも、温暖化の影響なのか、だんだんと不作になり、中国電力の埋め立ての影響などもあり廃業をしていった。